弱者救済機関としてのカトリック

投稿者:

最近「コミュニティ」と言う言葉がはやっていて、日本にはこれがないから駄目だとか駄目になったとか言われている。コミュニティという言葉は、国家と個人の間にある存在として考えられていて、なぜそれが必要といわれるのかよくわからなかったが、その答えが弱者救済機関としての存在、ということなら理解できる気がした。

日本では鬱になる人が増えてきて、社会から完全に隔離されてしまう。そうなった理由はいろいろあるのだろうからここでは考えないが、アメリカや韓国では鬱が増えていたっていいはずだが、韓国はともかくアメリカではそういう感じがぜんぜんしない。

その答えとして、アメリカには教会があるからではないかと思いいたった。鬱になって社会に出て行くのが嫌になった人は、日本では行く場所がないが、アメリカだと教会に行くのだと思う。キリスト教として弱者をほって置くとも思えないから彼らは教会で聖書などを学んですごし、いずれはカトリック神父として生きていくのではないか。

そう考えればなぜ韓国でカトリックがはやっているのかがわかる。市場経済を追求しみんな疲れ果てているように想像できるのだが、その裏で、そんな社会が嫌になってしまった人のための教会が機能しているということだ。

日本ではコミュニティを言う人はたくさんいるが、それが具体的にどういう体をなすものかを具体的に説明する人がいない。なかには中小企業だ、などという人もいる。しかし、社会が嫌になってしまった人に対して企業では駄目なのであって、なんらかの非日常性を感じさせるものでなければならないのだ。とはいえ日本人は宗教に対してなぜか寛容ではなく、カトリックといっても引いてしまう人のほうが多いのかもしれない。だとすると国がやっても企業がやっても駄目なのだから、希望は何もなくなってしまう。

だとすると、国が頑張ってこの日常を生きるに足るものに変えていくしかないはずだが、それが全然期待できないので、如何ともしがたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)