差別をめぐる混乱

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日本にも半ヘイト法などができて、差別に対する認識も敏感になってきたが、それにともなってそれが行き過ぎに感じることも感じるような状況も発生してきた。

差別とはなにか

論理的側面

2つのものを比べるとき、その2つに共通の基底がなければ比べることは難しくなる。全く無関係に見える2つのもの「さかな」と「鉛筆」とか「青」と「官僚」とか、こういうものは普通は比較もしないから区別という認識を行わない。もちろんどんなものも「存在」というカテゴリーは持つので、全く比較できないということはない。2つを比べるという時点で同じものを想定しておりこの基底が差別を意味あるものにしている。この基底の発見が差別の成果だ、ということもできる。このような基底を発見しその上で差異を見つければその差異はより有益なものになる。

法的側面

差別を法的に考えるときに、その前提である「自由」を考慮しないと差別の認識をあやまり上に述べた「行き過ぎ」を引き起こす。方の目的は「自由」であり、これを体現してものが「権利」である。自由や権利と言っても自分だけの個別的自由ではなく他人も含めた普遍的自由が問題となる。論理的に人を比べるときいろいろな比べかた、その基底に何を取るかが問題になるが、人間を比較するときはその物質的要素や自然的要素、つまり身体や年齢や男女ではなく、精神的要素で比較することが重要になる。

ある人間を罵倒した場合、罵倒する方は自由に発言する権利があり、される方は自分の自由を侵害されない権利がある。差別問題を考えるときにはこの側面、他人の自由を侵害する意思があったのかが問われければならない。

人間を精神的要素以外で区別することは、精神を蔑ろにし自由をないがしろにすることを意味する。よってそのような行為は積極的と言えないまでも侵害の意思あり、あるいは過失のようなものがあるとみなすべきだろう。それは外形や伝聞だけから判断することは難しく、当人の認識に深く踏み込まなければならない。

法的な回復

過去にいじめをしたことが今現在咎められるべきかどうかという問題。いじめというからには少年期に起こったことであり、少年期は精神的にも未熟ということで法的には特別の状況に置かれる。問われるべきは大人になった今どう思っているのかということで、それを未熟さ故のあやまちと見るのか、積極的に評価するのかが問題となる。後者の場合、本当にそう思っているとすると、今法を侵さないのは単に法律に怯えているからであって、法の力が弱まればとか人に見つからなければ進んで犯罪を犯す事を告白しており、公的な場所にふさわしくない。

行き過ぎかどうかの判断

法的な判断となれば、人の外形だけではなくその真意をみなくてはならない、過去にいじめをしたことを露悪的に語っていたとしても、その真意はすぐさま明らかではないし、人種差別的な言動も同様である。よってまず知るべきは彼らの真意であり、あるいはその未熟さの段階であり、そういう情報なくしては行き過ぎかどうかは判断できない。

オリンピック

上のようなことを書くと、身体の物理的競技であるオリンピックは価値が低いように書いていると思われるかもしれないがそうではない。人間は身体と精神の融合であり、人間は精神だけでは存在することはできない。オリンピック発祥の地ギリシアの身体の美の意識は、美の中では最高のものだろう。美を有限なもので表すなら身体を超えたものはないのだから。

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