学問における数学の利用とは

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日本の学問は、というより世界のそれは、アメリカの影響からかすっかり分析的になってしまっている。数学が大活躍する。数学をより多く使っているほど学問として価値があるかのように振舞っている。

数学を使うには、現象を量として把握しなければならない。しかし量として把握したときにその質は固定される。量がいくら変化しても、その質は元の質もままである、という前提ですべてが進む。しかし水がその温度とともに氷になったり、期待になったりするように、本来、量の変化は質の変化を伴うものである。

経済学には色々な弱点があるが、その一つはこれである。社会を量として質を固定し、量の変化だけをみて現象を見る。その質の変化から様々なものが生じても、それは二次的なものであり、それはそれで考えればいい、と考えるのである。

とはいえ、じゃー物理学は駄目なのかといえばもちろんそうではない。物理学のような人間を扱わない学問であるほど数学は活躍する。しかしその物理ですら様々な局面で限界に突き当たる。本来こういった限界に突き当たったときは、自らを振り返り、その前提を振り返るべきなのだが、現在の学問はそういったことを頑なに拒否し、オカルト的なことを主張して平気な顔をしているのである。

経済学はそのはじめにおいては、数学などはほとんど使われていなかったし、アダムスミスは人間のあり方を最後まで考えていた。最近ではいきなりY=なんとかとかいきなり意味不明の式を見せられる。経済学徒はしばしば数学を嫌うが、これはそんな数式で経済などわかるわけがない、という直感を含んでいて、その直感は正しいのである。ソースは「小論理学」。

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